第十三話 散らない桜
玲子は、古い日記のページをゆっくりとめくっていた。紙は長い年月を越えて黄ばんでいる。それでも、そこに書かれた文字には、少女だった祖母の息遣いが残っていた。
――大正十五年。その頃、北の村では、春はまだ遠かった。都会では桜の便りが聞かれる頃になっても、村には冷たい風が残り、山には冬の名残があった。けれど、五月になる頃。北の村の桜は、ようやく花を開く。それは、村人たちが毎年楽しみに待つほどの美しさだった。白く淡い花びらが、青い空の下で揺れる。長い冬を越えた人々にとって、その桜は春の訪れそのものだった。
日記には、少女の文字でこう書かれていた。
今年も桜が咲いた。村のみんなが嬉しそうだった。お母さんも、今年の桜は綺麗だと言っていた。
玲子は、その一文を見つめた。今では、北の村の桜は咲かない。けれど、この頃は違った。まだ誰も知らなかった。この美しい桜が、後に村人たちの心に残る場所になることを。
ページをめくる。しばらくは、少女の日常が続いていた。友達と遊んだこと。家の手伝い。村の人たちのこと。そして、一人の男のこと。
村の外から来た人がいる。大人たちは、あまり良く思っていないみたい。
玲子は眉を寄せた。日記には、幼いながらも、その男への違和感が書かれていた。
嫌いではない。でも……怖い。理由は分からない。
その短い言葉が、妙に胸に残った。人は、頭で理解するより先に、何かを感じることがある。少女だった祖母は、まだその理由を知らなかった。ただ、その男を見ると胸の奥がざわついた。
その頃、村で信頼されていた実男さんは、そんな少女の様子に気づいていた。ある日、桜の近くへ向かおうとした祖母に、実男さんは声をかけた。
「おい」
少女が振り返る。
「しばらく桜の近くには、一人で行くなよ」
「どうして?」
尋ねても、実男さんは少し黙った。何かを知っているようだった。けれど、少女を怖がらせないようにしているようにも見えた。
「……念のためだ」
それだけ言うと、実男さんは村の方へ歩いていった。少女は、その背中を見つめていた。理由は分からない。けれど、その言葉だけは心に残った。桜の近くには行くな。
日記の最後の方には、その日のことが書かれていた。
実男さんが変だった。いつも優しいのに、今日は少し怖い顔をしていた。
玲子はそこで手を止めた。部屋の静けさの中で、時計の音だけが響く。この先に何が書かれているのか。もう分かっている。けれど、読むしかなかった。少女だった祖母が見たもの。村が隠したもの。そして、なぜ、あの桜が咲かなくなったのか。玲子は、次のページへ指を伸ばした。