第十四話 散った桜
玲子は、古い日記の続きを開いた。紙の端は、長い年月に耐えている。けれど、そこに残された文字は、不思議なほど鮮明だった。
――大正十五年、五月。北の村には、まだ桜が咲いていた。春の終わり、都会では、もう散ったという便りが届く頃だったが、この村では山の冷たい風が残り、桜はゆっくりと花を開いていた。村人たちは、その桜を楽しみにしていた。長い冬を越えた証。今年も無事に春を迎えられたという、村の大切な景色だった。
祖母は、日記の中でこう書いていた。
『あの日までは、私は桜が好きだった』
玲子は、その一文で手を止めた。そして、続きを読む。
少女だった祖母は、朝から何度も窓の外を見ていた。桜が呼んでいるような気がした。実男さんには、昨日言われていた。「桜の近くには、一人で行くな」理由は聞かなかった。ただ、実男さんの顔がいつもと違っていた。優しい人だった。滅多に怒らない人だった。その人が、真剣な目で言った。だから、本当は分かっていた。行ってはいけないと。
それでも、少し見るだけなら。すぐ帰れば大丈夫。少女の心は、そんな小さな言い訳を作った。そして、桜の方へ歩いていった。
桜の木の下には、男がいた。村の人間ではない。以前から、村で噂になっていた男だった。酒を飲んでは騒ぎ、人に絡み、何度も村人と揉めていた。誰も近づきたがらない男だった。
祖母は、姿を見た瞬間に足が止まった。嫌いではなかった。ただ、怖かった。その感覚は、今でも覚えている。日記には、そう残されていた。
男がこちらを見て、笑った。その笑顔に、嫌なものを感じた。「一人か」祖母は返事をしなかった。一歩、後ろへ下がる。男も一歩、近づいてくる。「逃げるなよ」
その瞬間、体が動かなかった。声も出なかった。怖い。ただ、それだけだった。
その時、「おい!」と遠くから声が響いた。振り向くと、父と実男さんが歩いてきていた。男の顔色が変わる。「……邪魔するな」実男さんが祖母の前に立ち、低い声で言った。「そこから離れろ」男は笑った。「何だ? 正義の味方か?」
その言葉の後、男が急に動いた。実男さんが止め、父も加わり、三人のもみ合いになった。祖母は何が起きているのか分からず、ただ震えていた。男の手が伸び、父が押し返し、実男さんが男を掴む。その瞬間、足元にあった古い棒が倒れた。誰かの足が当たったのか、誰かが押したのか。誰にも分からなかった。
鈍い音がした。男の動きが止まる。
桜の花びらだけが、ゆっくり落ちていた。男は、片膝をついた。左目には、棒が刺さっていた。「……嘘だろ」誰かが呟いた。すぐに棒を抜こうとしたが、抜けなかった。無理に動かせば、さらに傷を深くする。男はその場に倒れ、そして――動かなくなった。
しばらく、誰も言葉を出せなかった。事故だった。誰も殺そうとはしていなかった。でも、人が一人、死んだ。父は震える手で祖母を抱き寄せた。実男さんは、桜を見上げた。「……こんなことになるなんて」
村人たちが集まってきた。そして、皆知っていた。この男が、以前から何をしていたか。どれだけ村で問題を起こしていたか。だから誰も、男だけを哀れむことはできなかった。けれど、誰も喜ぶこともできなかった。
その夜、村人たちは集まった。「警察に届けるべきだ」そう言う者もいた。しかし、祖母を見ると、誰も言葉を失った。まだ幼い少女。もし、このことが広まれば、一生、傷として残る。父は黙っていた。長い沈黙の後、村の長が言った。「この子を守る」その一言で決まった。誰かが望んだわけではない。ただ、この村で生きていくため。そして、この子を壊さないため。
男は、桜の下に埋められた。捨てるようにはしなかった。村人たちは穴を掘り、六文銭を入れ、読経をした。棒は最後まで抜けなかった。そのまま、土の中へ沈んでいった。桜の根の下へ。
日記の最後には、短い一文だけが残っていた。
『あの春の日から、桜は同じ花には見えなくなった』
玲子は、ゆっくり息を吐いた。ページの向こうから、祖母の震える声が聞こえるようだった。